綴ルンです

思ったことを綴っただけさ

余白のなさ

とても偏見に満ちているかもしれない。

しかし、思ったので綴る。

 

詰め込むことばかりが良しとされていないか。

時間当たりで処理できる情報が、だ。

映像なら早送り、

画像の色は微に入り細に入り、

楽器はとにかく鳴らし続ける。

 

間が 余白が 怖いのか。

埋めておかないと 不安なのか。

 

私がずっと若い頃、

「脳は数%しか活用されていない器官」だと言われていた。

であるならば、

社会生活が数十年で数倍にテンポアップした現在、

そんなの余裕のよっちゃんお茶の子さいさいでついていけるはず。

ポテンシャルが自然に引き出されるような環境だ。

けど実際は、そう見えない。

もしかしたら、5年後よりも、

100年前の暮らしの方がしっくりくるのでは?

と想像してしまうほど、人の進化はたぶん遅い。

 

ただ、便利になった分、待てなくなった。

反応は早ければ早いほどいい。

今すぐに答えがほしい。

待ってる間もケータイ見ずにはいられない。

手持ち無沙汰が 落ち着かないのか。

 

生物としての脳の機能がさほど変わらないのに、

感情がゆとりのなさを実はずっと抱えていたなら、

それじゃあ脳は疲れるよ。

情報の処理に疲れて追い付けない自分を責めても、

自分を守るために情報を遮断するよ。

だから考えられなくなる。

 

詰め込まれた情報は、

華々しくて圧倒される。

それも技術のうちだから、

できない人は要らぬ引け目を感じてしまう。

だからって 皆が皆

同じようになったなら、

そんな世界は、目に映るものも聞こえてくるものも

きっと息が詰まる。

 

私は谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』をちゃんと読んだことはないが、

確か日本家屋で過ごす日常に現れる暗がりに、美を見出す内容であった。

美に対してはどうでもいいが、暮らしの中の暗がりは、深い余白なのだろうと思う。

だが、隅から隅まで電気で照らしてしまえば、

失われた暗がりは、

心の中に作るしかない。

 

言いたいことは ただ1つ。

間を 余白を 何もないことを

悪者にしないで。

それは 息抜きできる空間や時間。

ギチギチに詰め込まず、

少し隙間を 作りませんか。