先月の新聞記事になる。
4月9日の読売新聞夕刊にあったインタビュー記事。
話を聞いたのは、季羽 倭文子(きば しづこ)氏
御年93歳。
紹介文によると元看護師で、訪問看護やホスピスの日本での普及に尽力し、80歳近くまで働き続けた、とのこと。
本文を読むと大変精力的な方で、
39歳の時に英国での研修に参加して訪問看護のことを知り、
より深く学びたいと43歳で英エディンバラ大学に2年間留学している。
それらが今からおよそ50年前のことだ。
その年齢で留学って、今の時代だってためらってなかなかできるものではないと思う。
帰国後は訪問看護の制度化に奔走したり、
その後「ホスピスケア研究会」を設立したり、
また、昨年92歳で初のエッセー集を出したりと、
とにかく挑戦の人生を歩んでこられたようだ。
この記事の冒頭に、季羽氏が出版した翻訳書
「死の看護」(原著はリチャード・ラマートン「Care of the Dying」)の「赤い毛布」の話があり、
印象に残ったので、長くなるが記事を引用する。
ごくまれにだが、がん患者が致命的な大量出血をすることがある。そんな時、医療者は急いで動き回ってはいけない。患者が最も必要とする「すがりつける人がほしい」という願いを受け止めて、普段から備えてある赤い毛布で患者の体を覆って抱き締める。そうすれば、白いシーツに広がった赤い血の色を見た患者の恐怖を和らげられる――。
大変、どうにか処置しなきゃ!ではなく、
出血を隠す白い毛布でもなく、
患者の状態をそのまま受け止めて寄り添う
赤い毛布なのだ。
そういう寄り添い方があったんだ。
中には、死に際を一人で迎えたい人もいるだろう。
けど、死の不安と恐怖で混乱している時に
誰かが側にいてくれたらそれだけで
自分の存在が許されているように思えるんじゃないだろうか。
将来、自分自身がそうなるかもしれないし、
あるいは誰かのその状態に居合わせるかもしれないけど、
その時「頑張ってきたね そのままでいいよ」と
自分なり誰かなりに声をかけられたら、
安心してこの世の息を終えられるような、
そんなことを考えさせられた話だった。
看護師としてたくさんの病気や死に向き合ってきた季羽氏は、
ご自身の身じまいを整えられて暮らしている。
「命や死については『委ねる』という言葉が一番近いかなと感じます」
その境地に共感しつつ、
人を受け止めるための心の足腰を鍛えねばなあと
ちょっと気持ちを新たにさせられた記事だった。