私は洗面所でコップを使わない。
うがいをしたり、歯を磨いて口をゆすいだりする時は、両手をおわんにして水を受けている。
顔を洗う時もそうだ。
人生の半分以上はそうしてきたのだが、
どうもこの1〜2年、何だかやりづらいなあと思っていた。
手指や手首の関節は問題ない。
も、その後痛みや腫れてる感覚が引いて、利き手親指の曲げ伸ばしに支障がなくなった。ごく軽く済んでよかったよ。
では何だろう?
洗顔で顔をすすぐにも、妙に時間がかかる。
うがいをするにも、水を口に含みにくい。
しかしやりづらいだけで、できないわけではないから、
何でかなあと思うだけでそのまま過ごしていた。
さて、私は先月神田明神へ初めて参拝した。
そこで、御祭神の一柱である少彦名命の像を見た時、その手の形が妙に目に焼きついた。
波の上の小舟に立っている少彦名命は、
両手でおわんの形を作っている。
手で作るおわんの形って、ああだよね・・・。
あれ?
おや?ちょっと待てよ。あれが標準だとすると、
私の手のおわんの形は違うんじゃないか?
そこからするすると疑問氷解。
少彦名命の像では、両手の小指と手のひらの側面を横に並べてピッタリくっつけたおわんの形。
対して私のは、親指以外の4本の指をピッタリくっつけてさらに上下に重ねていた。両手の指が直角に重なる形で、おわんが小さくなる。
小さくなった分、すくえる水の量は少なくなるから顔をすすぐのに回数と時間がかかるし、
口を寄せづらいのでうがいもやりにくくなっていた
ということだ。
では、なぜおわんの形が小さくなっていたのか。
探っていくと、水をこぼしたくないという気持ちが強かったからだと分かった。
だから4本の指を二重にしたのだ。
その気持ちの底にあったのは、得られたものを逃してしまうことへの恐れと、逃したくない執着心。
得られたものはいろいろだ。目に見えるものも見えないものも。
けれど、それはかえって自分で自分の望む状態から遠ざけていたことになる。
だって不便だったもの。
少彦名命の像を見るまでに、
同じような手の形は他で見ていたはずだ。
なのに、それまでは目に映るだけで、何にも思わなかった。
気付くきっかけが御祭神の尊像だなんて、できすぎた話だと思うけれど、
それもタイミングなんだろう。
「失わないから、或いは失っても大したことないから、怖がらずにもっとおおらかでいい」
そう受け止めた。
それからは、おわんの手の形を変えた。
何も問題がなく、それどころかやりやすいったらない。何やってたんだろ。
たまに前の手の形になることもあるけと、
やりづらさで気が付くようになった。
「あれ?」「おや?」「何だ?」は、
自分のあり方へのヒントなのかもね。
に近い話。