で、自分の執着や恐怖に気付いたことを書いた。
少彦名命像は、両手でおわんの形を作っており、
その理由が像の前の紹介板にある。
神田明神のホームページでも読めるが引用すると、
『この少彦名命のお姿は、皆様の願いを掌にのせて神様にお伝えし、さらに神様からの御恵みを掌にのせて皆様にお届けくださるお姿を表現しています。』
なるほど確かになあ。
両手で作るおわんの形は、受け取るようにも見えるし、差し出すようにも見える。
してみると、私は『もらいたがり』だな。
いいものもらいたい、面倒なことは誰かにやってもらいたい、分かってもらいたい、自分に都合よくなってもらいたい。
そんなことに執着して、がめつくなって、
得たものを守りたいと思うあまり縮こまって、
差し出されたものを受け取る手も伸ばせなくなっていた。
そんなんじゃ、せっかくのすてきなあれこれが来ても素通りさせてしまうよね。
んで素通りさせたのは自分なのに、「私のところには何も来ない」と1人で勝手にすねていた。
客観的にめんどくせえヤツ。そして哀れ。
少彦名命の像の紹介文で、やっと気が付いた。
受け取る手は、与える手。
上手に受け取ったら、それを独り占めするのではなく誰かと分け合えば、喜びが増える。
もらって、差し出して。
そうして巡らせる。
現実的に考えれば、お金なんかはおいそれとそうはいかないけどさ。使った分だけ入ってくる保証はないから、つい渋っちゃう。
だったら、痛みの出ない範囲で、差し出せたらいいと思う。
お世話になった人へとか、スーパーやコンビニに置いてある募金箱とか、神社仏閣へのお賽銭とか。
たまには自分にごほうびとか。
そういったお金や物でなく、笑顔でも、言葉でも、気持ちなどでも、
差し出せるものはある。
差し出すのはできても、受け取るのは拒否する人いるよね。
私は儀礼的に格好つけて拒否しながら、内心「わーいヤッターラッキー」と思って、ちゃっかりしっかりもらうクチ。
もらいたがりなもんで。
けど中には本気で「私なんかがいただくなんて恐れ多い」と思ってて、心理的地平線の彼方まで一瞬で後ずさりする人もいるんだよね。
そんなアナタ、もったいないよ。
受け取っていいんだよ。
時と場合にもよるけど、その拒否は、差し出した人の好意や厚意を殴りつけてるようだよ。
(差し出されているものが取引の道具でなければ)
だから、受け取る自分をゆるしなよ。
差し出した方は、受け取ってもらえたら嬉しいよ。
持ちつ持たれつ も、
お互い様 も、
情けは人の為ならず も、
巡らせるから起こること。
滞ったら淀むもの。
両手を差し出して、引き寄せて、
巡らせてまいりましょう。