10月1日の読売新聞に、【パスカルの現代性】という題で、フランス文学者 塩川徹也氏のインタビュー記事があった。
パスカルは17世紀フランスの思想家・数学者・物理学者で、今年は生誕400年である。
よく知られている名文句は
「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界は変わっていただろう」 や、
「人間は考える葦である」
で、いずれも遺著『パンセ』に含まれる。
といっても、これは新聞記事の受け売りで、
私自身はそれらの文句は知っていたが、
『パンセ』を読んだことがない。
四半世紀くらいずっと読みたいと思ってるのだが、
思ってるだけでたやすく時は過ぎて行く。
それはともかく。
インタビューの最後に、塩川氏は「考える葦」を手がかりに、
AIに対して人間の独自性はどこにあるのか
を考察している。
以下、少し長いが記事を引用する。
「AIの演算機能・推論能力は大したものです。例えば将棋・囲碁で人間は全くかなわなくなるでしょう。だからAIは偉いのか。囲碁・将棋の勝負に限ればそうでしょう。ただAIは勝負をしたいのか。対決の場を設けてきたのは人間です。AIに意識はあるのか、意識は与えられるのか。これは大問題で、素人の僕には分かりませんが、AIは自らが死ぬことを意識するのでしょうか。」
人間の独自性については、
「やがて死ぬということを意識して生きている。そこに人間の尊厳があるということです。」
というのがバスカルの主張だと氏は言う。
そこは、『銀河鉄道999』で松本零士先生から教わったことだ(もちろん先達はパスカルだが)。
私が気付かされたのは、AIの意識云々のくだりだ。
2001年公開の映画『A.I.』では、少年型ロボットに愛の感情が組み込まれる。
もし今後、人工知能に愛の感情を組み込めるまでになったら、
それはもう、自意識の生成にならないか?
神経細胞を培養して大きくしたところで、どの時点で意識が生じるかは生物学的にもまだ不明なのに、
ディープラーニングでそれは可能なのか?
そして生物でない人工知能にとっては、
獲得した自意識を失った時が、すなわち死ぬ時になるのだろうか。
それをAI自身が認識できるのか。
「AIは勝負をしたいのか」も、
対決に意味を持たせているのは人の側だ。
AIに勝ちたいという意識はない。
そう言われればそうだった。
勝てる手を計算した結果なのだ。
人は自意識を持つから、
本来持たぬものにも、それを感じてしまうところがあるのかもしれない。
感じて、同時に意味を持たせる。
ただの出来事も、有機的になる。
対話型生成AIに 個 を感じるのも、
使っている人の方だし、
人である以上、致し方ないことなのだろう。
ロボット掃除機をまるでペットのように思うのも、
ある種 意味だ。
人は、AIをこの先どうしたいのだろう。
AIが自身の死を意識するまでになったら、
人間の尊厳はどうなるのだろう。
意識や思考における、人とAIの違いは?
物事に意味づけするかどうか
が鍵にならないかと考える私は一本の葦である。