映画『ネバーエンディング・ストーリー』を見たのは、小学生の頃だった。
学校の図書室や近所の図書館で本を読むのが好きだったが、
読むのは落語の噺や『ズッコケ三人組』シリーズ、『誰も知らない小さな国』シリーズなど日本の作品が主で、
海外の児童文学である『はてしない物語』は知らなかった。
同様に『指輪物語』も『ナルニア国物語』も知らなかったし、未だに読んでないな。
海外の、スケールの大きなファンタジーに触れていなかったのだ。
だから、偶然TVで映画の宣伝メイキング番組を見た時は、ファンタジーの世界に心躍らせて
「絶対見たい!」と思ったし、実際見に行った。
そして、映画の中の世界に憧れて憧れて、
すぐさま原作を図書館で借りて読んだ。
映像は、今思い出してもよく作られていて素晴らしかったと思う。
原作の文字を読めば映画の場面が浮かび、会話が聞こえてきた。
が、映画の部分は本の半分程度で終わってしまい、
映画の最後で主人公が現実のいじめっ子たちに仕返しするシーンはなく、
主人公は物語の中に入って、話が進むのだが、
読み進めるほどに気持ちが重くなっていった。
その重さが、この話の本当に伝えたいことだと、
子どもの拙い理解力でも何となく分かってきた。
そして衝撃だった。
映画は、誰もが楽しめる、美しくて口当たりのよい上澄みだったのだ。
原作者のミヒャエル・エンデ自身が、映画を拒絶し批判している。
けれど、その美しさに一度焦がれた私は、
解釈や印象がまるで変わってしまっても、やっぱり映画は映画として好きだった。
これと同じ構造の映画が、『風の谷のナウシカ』だと感じる。
映画は、物語の始まりの部分に過ぎない。
映画化の時点で連載中だったし、映画化に原作者が思いっ切り関わってるので、
原作者と制作側の齟齬は生まれてないけれど。
でもナウシカの話があれで終わりかと思いきや、
その先の様相のやるせなさと救い難さといったら。
本題はむしろ映画の後じゃん、と思う。
ただ問題は、この原作をほぼ大人になってから読んだのだが、
大人になっても拙い理解力で、お話の世界の把握に心もとなく、最低でもあと2〜3回は繰り返して読まないと分かった気になれなさそうだ、ということ。
これよく歌舞伎にしたな尾上菊之助氏。
『ネバーエンディング・ストーリー』については、
映像化されなかった原作部分も、後に続編として2本作られている。
が、それは見に行かなかった。
初作の夢を夢のまま、取っておきたかったからかもしれない。
映画に関しては、『CINEMORE』というサイトに詳しく書かれている。
【解説】映画『ネバーエンディング・ストーリー』原作者ミヒャエル・エンデが望んだものとは?|CINEMORE(シネモア)
ネットニュースでこの記事を読んだので、今回懐かしくて取り上げた。
記事の最後に、アメリカで再映画化される企画が報じられたとある。
初作公開から40年、実現したらどんなファンタジーが広がるだろう。
けどその前に、原作をもう一度読み直したい。
子どもの頃に読んだ印象で止まっているからだ。
視点が変わった今、原作の世界とエンデ氏のメッセージは、どんな風に映るだろう。
その上で、新作映画を見てみたいな。
ただ、エンデ氏が物語で差し出したテーマは、
あれからずっと変わらず、問われているような気がする。