昨日の続きを出すはずが、
うっかり公開するボタン押しちゃったので、
こちらを先に。
1月21日(日)の読売新聞 書評欄に、
興味深い書評があった。
紹介されていた本は、
『それでも母親になるべきですか』(新潮社)
(原題:WITHOUT CHILDREN)
著者のペギー・オドネル・ヘフィントン氏は、シカゴ大学でジェンダーや母性、人権などの歴史を教えている。
書評の見出しは、『「育児の責任は女性」に疑義』。
書評は『アグネス論争』から始まる。
約40年前に散々取り沙汰された『アグネス論争』を知らない人もいるだろう。
香港出身の歌手アグネス・チャン氏が、職場に子どもを連れてくる『子連れ出勤』をしたことに対して、作家の林真理子氏が非を唱え、女同士の戦い大好物のメディアが飛び付き大論争に発展したのだ(一部偏見あり)。
それから月日が流れたのに、
ワーキングマザーを巡る社会常識は変化していないように感じる、と岡氏は言う。
以下、私に響いた部分を、註を加えて引用する。
「本書の翻訳者(註 鹿田昌美氏)は、すでに日本でも話題になったオルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』(新潮社)を手掛けている。「母性」は女性にとって自然に備わっているもので、子どもを産んだなら育児の責任はすべからく女性が背負うべきだ、という暗黙の了解に疑義を唱えるという点で両書は共通している。」
その昔、知り合いの男性に
「母性本能なんてものはない。母性が本能であるわけがない。後天的に獲得するか、獲得せざるを得ないものだと思う。持ち得ない女もいる」
と言ったら、メチャクチャ衝撃を受けていた。
素晴らしいお母様に育てられたんだね。幸せだね。
だけど、なぜ「母性」という言葉1つで育児が片付けられるのか。
「父性」を見ぬふりをして語らない方が、長時間仕事だけしていればいい男たちにとって都合が良かったのか。
『母性本能』なんて幻想を、
男は(利用しつつ)信じ込まされ、
女は踊らされたような気がする。
赤ちゃんや小さな子を見たらかわいいって思わないと、女としてダメなんだ、みたいな。
私は子どもってキライだったし(今はそうでもないが)。
母性が本当に本能なら、自分が生んだ子を捨てることも殺すこともないはずじゃない。
現実は?
「女性が輝く社会」を謳った元首相がいたね。
女性が働きやすく、社会で自分を輝かせられるように、とか何とかだっけ?
外に出て働かないと、輝いてる認定されないのか?
育児の責任は社会的に負わされたままなのに?
外に出ず、子どもの成長に向き合いたい女性だっているでしょうに、それじゃ輝かないの?
これらの、これまでの政治の狭い視野と、
社会の意識の無変化と、
経済の落ち込みが、
子を持ちたくないという方へ向かわせているように思える。
子どもを預けて働きに出るもよし、
子どもと一緒に過ごしてもよし、
子どもを職場に連れて行ってもよし(仕事の内容や受け入れ体制などが許されれば)、
それを母親だけでなく、父親もできるのが当然のようになれば、
理想的だと思うんだけどね。
書評は、
「少子高齢社会での「子を持つこと」の意味を考えさせる一冊である。」
と締める。
とりあえず、『母性』だけに頼ろうとするな。