で、今年のウィーンフィルニューイヤーコンサートを見られなかった顛末を書いた。
再々放送しないかとTV欄をチェックしてたが、
残念ながら無かった。
しかし先日、思わぬ形でニューイヤーコンサートを見られた。
放送したのは22年前、2002年のもの。
指揮は小澤征爾氏であった。
私はクラシック音楽が好きだが、
指揮者によっての音楽の特性まで聞き分けたりすることはできない。
指揮者による音楽の違いとしてよく引き合いに出されるベートーヴェンの交響曲第5番「運命」では、
出だしが早いとか遅いとか、休符が長いとか短いとか、違いが明らかで誰にでも分かりやすい。
が、それ以外の曲になると、もうサッパリ。
それに、これは推測だけど、
同じ指揮者の同じ曲でも、成りたての若い頃と長く経験を重ねた後とでは、曲の解釈が変わったりして多少違うように聞こえるんじゃないか。
そうなると、「この指揮者はこんな感じで」とか言い切れなくなりそう。
だからと言っちゃ何だけど、
小澤征爾氏の音楽がどのように素晴らしいのか、
正直よく分からない。
ただそれは私の感受性の低さの問題で、
本場の欧州が認め世界がこぞって絶賛した小澤氏の音楽性の素晴らしさは、疑いようがない。
その小澤征爾氏が今月亡くなったため、
2002年に小澤氏が指揮を振ったニューイヤーコンサートの一部が、追悼として放送された。
バレエの部分の放送もあったので、
まんま今年の見逃しを埋めてもらえた気分。
曲はお馴染みの『喜歌劇《こうもり》序曲』や『美しく青きドナウ』など。
最後の『ラデツキー行進曲』では、小澤氏はほとんど手を振らない。
身振り首振り息遣いで指揮をする。
それが実に楽しそう。
観客への手拍子の大きさを指示する時もそうだが、
「聴衆も音楽作りに参加している一員、皆で音楽を楽しもう」と言っているように感じた。
『ラデツキー行進曲』は、テーマの1度目は小さく、2度目は大きく演奏するが、指揮者によっては音の強弱の振り幅が極端なことがある。
小澤氏のこの時の演奏では、そういったケレン味を追うのではなく、
どこまでも聞きやすく、素直に曲のおもしろさや楽しさを感じられる演奏に思えた。
今年のじゃないにしても、
見逃したニューイヤーコンサートを見られたのが、
かつてそれを指揮した偉大な音楽家が亡くなったから、というのは、
嬉しいような残念なような、複雑な気持ち。
でも、改めて小澤氏の音楽を聴けて、
それがニューイヤーコンサートで、
二重にありがたかった気持ちもある。
今度は見られて、聴けて、良かった。