先日、お台場の某ショッピングモールに行った時のこと。
ガンダムの実物大模型をどこかで展示してるのは知ってたがここだったのか、という建物で(それがユニコーンガンダムとまでは知らなかったし、そのユニコーンガンダムも名前を聞いたことあるレベルだけど)、
そこにはドラえもんのショップがあり、入場は無料だけど遊ぶなら有料のひみつの博物館なるものがあり、建物外の入口にはのび太&しずかちゃんと一緒に座って写真を撮れるベンチもあった。
まったく知らなかった。
反対側からモール内に入ったもんで。
そのドラえもんづくしを見ても特に何も感じなかったのだが、
家族にそう言うと「あんなに好きだったのに?」と不思議がられて、
むしろ自分が驚いた。
そう言われて記憶を掘り返してみると、
・ドラえもんのヒミツ大百科という、小さくて分厚い本をせがんで買ってもらい、ヒマがあれば読んでいた(のに内容はすっかり忘れた)
・超合金ガチャガチャドラえもんという、しっぽを引っ張るとお腹がパカッと開いてひみつ道具が入ったカプセルが出てくるおもちゃをせがんで買ってもらい、ひたすら遊んだ
・飛び飛びで揃っていないコミックスを飽きずに繰り返し読んだ。新しいのが欲しくて、当時映画2作目『のび太の宇宙開拓史』をせがんで買ってもらい、しゃぶり尽くすように読んだ
・もちろんアニメも欠かさなかった
うわあドはまりしてたじゃん。
せがんで買ってもらったって、誕生日とかこどもの日とかクリスマスとかだけど、ねだったなあ。
それをすっかり忘れ去り、今や何の感慨も湧かない自分。
好きだったなあという懐かしさもない。
身の回りをグッズで固めるほどではなかったから、憑き物が落ちたようにというのもちょっと違う気がする。
何にせよ、私はいつの間にかドラえもんを卒業し、ひたっていたことさえ覚えていなかった。
それで、子供の頃は確かに大好きだったのに、
長じてそうではなくなったものがまだあったと思い出し(長くなるから書かないけど)、
逆に子供の頃は嫌いだったものが今ではわりと好きとかの逆パターンもあるなあと思いは巡り。
何を言いたいかというと。
昔と今は違うし、違ってていい、てこと。
成長すればそれは自然なこと。
だからって、無理に自分を変えなくちゃと追い込むこともないんだけど。
変わらない部分と変わる部分と、まぜこぜが当たり前なんだよね。その割合も人それぞれで。
で、昔の自分にとらわれる必要もない。
過ごしているのは今だから。
生きているのは今だから。
かつての私のドラえもん愛が、今の私に何か影響してるかというと、特に見出だせない。それくらい忘れてた。
だから、思い出して、また大好きになれるかというと、たぶんできない。
もう当時の私ではないから。
それで、方向性は正反対だけど、
同じようなことが、悲しく苦しくつらい記憶にも言えるんじゃないだろうか。
心が壊れるような経験は別として。
悲しさや苦しみを、乗り越えたり やり過ごしたりして、今、いるのなら、
そのつらさをただただ反芻するより、
バネにするか、乗り越えられたことを支えにするか、あるいは戒めにするかして、今、ここ、を感じて生きたらいい と思う。
過去の自分にとらわれながら生きたって、
それは現在の時間を過去に生きてて、けれど生き直すことは決してできない。
あの時の自分を守れたから、今、ここに、いるのだ。
今、ここで、ここを、生きている。
今の自分でいいじゃないか。
(今つらいんだ、という場合は、
逃げたり、相談したり、向き合ったり、きっと方法や対策はあるから、
どうか生きていて、と思う)
だから、ドラえもん愛がなくなったって、それも私だよ。