9月3日(日)の読売新聞に、興味深い記事があった。
『科想空感』というコラムで、
「バイアス盲点」について書かれている。
引用しながら説明すると、
合理的に物事を判断しているつもりでも、感情に流されたり先入観にとらわれたりして、考え方に偏り(バイアス)が生まれてしまうが、自分のそれには気が付かず、他人のそれはよく見える
というものだ。
実例として、アメリカ・サンフランシスコの科学博物館「Exploratorium(エクスプロラトリウム)」にある展示が紹介されている。
展示名は「sip of conflict」。
記事では 葛藤の一口といった意味だろうか。と訳している。
以下、記事をそのまま引用する。
その展示は、便器に水飲み用の蛇口が付いている。横には、普通の水飲み場がある。展示紹介は、こう告げている。「この便器は一度も使用されていません。水は完璧にきれいです。あなたはどちらの水を飲みますか?それはなぜ?」。
合理的に判断するなら飲めるはず。
しかし、写真では背側のタンクと便座のない便器の間に蛇口があり、絵面が躊躇を誘う。
その躊躇こそがバイアス盲点だ、ということだ。
なるほどなあ。
科学の記事はこう締めくくる。
科学的な情報が伝わらず、社会に分断が生まれているとされることに対して、
『しかし、便器の蛇口から出るきれいな水への嫌悪感を省みれば、「未使用の便器で汚れてない水ですから」といった「科学的な議論」の限界に、思いが至る。お互いのバイアスへの気配りも大事なのだろう。』
もっともだ。
で、その気配りってどんなことだろう?
相手の選択権を尊重し、奪わないことだろうか。
民俗文化に基づくバイアスで、そのままだと確実に命を落とすという場合、話し合いや説得なんて悠長に構えていられるものだろうか。
あるいは逆に、
科学的に正しいことだったはずが、
科学が進むにつれて正しくなかったと明らかになることもある。
人体に無害とされて建築資材に使われたが、
肺に留まり病気を引き起こすことが分かった。
科学の正しさは、あくまで、現時点のものなのだ。
となると、
浅薄な知識と情報でボーッと生きてる私なんかは
みんながそうするなら従おうかな
と、数の力に寄ってしまう。
蛇口便器の水だって、
もしそこに飲むための行列ができていたら、
おもしろそう、と並んで抵抗なく飲むだろう。
だって飲んでも平気な人がたくさんいるし、と。
ビートたけし氏はよく喝破したものだ。
『赤信号 みんなで渡れば怖くない』
医学なんかはそれで助かった命もあろう。
男性用便器に『泉』と名付けてアート作品としたマルセル・デュシャンなら、
蛇口便器の水をためらいなく飲むんだろうか。
思えば昆虫食もバイアスだ。
自分や誰かのバイアスを見付けるのは、
その思考癖を紐解くようで、
もしかしたらおもしろいかもしれない。