「断捨離」という言葉は便利だ。
ウイキペディアで調べると、元々はヨガの思想。
それを作家のやましたひでこ氏が、物の片付け方として広めた。商標登録もしている。
ただの片付けより強い意志と行動力を感じさせるのは、言葉の頭が濁音+次の音が ん とつぐむからだろうな。
今や、片付け=断捨離だ。
暮らしって、物入りだ。
そこで過ごす時間が長いほど、物は増えていく。
適度に掃除して、要不要を分けて処分しても、
やっぱり物は溜まっていく。
思い出とともにあったり、
お気に入りを手放せなかったり、
誰かからもらったり、
買い物以外に憂さ晴らしがなかったり、
理由はいろいろ。
それがだんだんと住人を圧迫しだしたら、
空間の主従が逆転してしまう。
断捨離は、
気付いてなかった心のクセを自覚する機会になる。
病的なほどに物を溜め込む人には、
このくらい思い切った方法で
ちょうど良いのかもしれない。
だけど、だからといって、
物を持たないことが礼賛されるのって納得いかない。
断捨離すなわち褒められる行為になるのが、
どうも違和感を拭えない。
適度に片付いていればいいじゃない。
それか、たくさん物があったって、
お気に入りに囲まれて気分が上がるならいいじゃない。
コレクターなら、時に文化的価値を持つことがあるし、
雑貨屋さんをのぞけば素敵な物たちが並んでウキウキうっとりして、その気分の一片を自分の傍らへ置きたくなるし。
少しホコリをかぶるくらいは大目に見てよ。
人が動くとホコリは舞い上がって降り積もるものなんだから。
私なんか物持ちがいいので、
30年前の服をまだ着ていたりするし、
バッグも小物も20年選手がザラにいる。
日頃の手入れと保管に少し気を付ければ、
取り立てて高価なものじゃなくても、保つ。
流行を追いかけない性分も一役買っている。
色が褪せたり形が崩れたりしたら処分するが、
そこに至るまでが長い。
「一体何年着てるの、いいかげん捨てちゃいな」
とは、単純にいかないのだ。
そうなると、断捨離するものがほとんどない。
でも、持ち物が少ないわけでもないと思う。
クローゼットに余裕がないから。
お鍋だって、大は小を兼ねない。
お皿だって、大きさも深さもいろいろほしい。
服は場面と季節に合わせたいし、
小物はそれに合うものを手元に置きたい。
(今は服のサブスクもあるけど、使いこなせる自信もないし。)
いただいたお人形は飾りたい。
写真立てには写真を入れたい。
物って、暮らしの実感だ。
バッサバッサと物を捨てることを
良しとする風潮は好きじゃない。
自分のところに来た物は
長く大切に使っていきたい。
経済回してないとか言わないように。
それはまた別の話。