さて、鬼子母神の次に訪れたかった目的地。
小野照崎神社。
神社名の「小野」は、ご祭神二柱のうちの一柱である小野篁公から来ているのだろう。
「照崎」は、お社が下谷に遷る前にあった地名のようで、今の寛永寺 輪王殿の辺りらしい。
ここに小野篁公が暮らしていたとのことなんだが、
京都で嵯峨天皇に仕えていたんじゃなかったの?
隠居してからこっちに来たの?
遠路はるばる過ぎないか。
もう一柱のご祭神は、菅原道真公。
二柱のご祭神を表した紋は、
三つ巴と梅花が重なっている珍しい形だ。
災害による焼失や倒壊を免れた本殿は、
見ているだけでご利益をいただけそう。
(もちろん文化財としても貴重。なのだが、実は他にも同じように災厄を免れた社殿はいくつかある。
東京都区内でチョロっと調べてみると、
・根津神社
は、関東大震災もその後数日続いた大火災も東京大空襲も、無事にやり過ごしている。
山王稲荷神社なんて、明暦の大火(1657年)で焼けたのを再建して以降だ。
ちなみに、最近超パワースポットとして取り沙汰される日本橋の小網神社は昭和4年(1929年)の造営で、空襲は免れている。小野照崎神社を含む上記の社殿は江戸時代の建築だから、それらに比べるとずいぶん築浅に思えてしまうが、古墳を作る時代からの歴史を勉強している日本人の感覚がおそらくどうかしている。あれだな、京都の人の「明治の頃からのお店なん?最近始めはったんやねえ」っていう感覚。先の大戦は応仁の乱という。まあ京都以外の日本人だと応仁の乱はさすがにないけどな)
鳥居をくぐると、すぐ左手に御嶽神社・三峯神社・琴平神社のお宮があるが、
まずは拝殿にお参りしてご挨拶。
古い社殿の数々の彫刻は、なかなかの見応え。
社殿の左にドデンと富士塚。でも入れない。
ホームページによると、夏越の祓の当日と翌日の2日間しか登れないとのこと。
富士塚の門の両側にいたのが、狛猿。
社殿のほぼ向かい側にある庚申塚に、道開きの猿田彦命がお祀りされているとのことだから、何か関係があるんだろうか。
それから、境内の隅に稲荷神社・織姫神社のお宮。
全体的に広くもなく狭くもなく、ベンチもあって適度に歩き回れる神社だという印象だ。
参拝客も、特に多くはないが途切れず訪れる。
末社も一通り回って、ひとまずベンチで休んだ。
拝殿の彫刻をもう少しゆっくり鑑賞したくて、
でもずっとウロウロしていたら他の人がお願い事をするのに邪魔になってしまうので、
参拝の人がいなくなるタイミングを見計らっていたのもある。
しばらく待っていると、参拝客が1人もいなくなったので、
再度拝殿前に立ち、様々な彫刻を眺めていた。
すると、拝殿の扉がガラガラっと開いて、
職員さん2人が手前に横長の台を据え、奉納されたお神酒や何かなどを並べ出した。
単にお供えするならご祭神の近くに据えるような気がするので、お披露目も兼ねての位置なんだろうか。
そしてそのおかげで、拝殿の中を見ることができた。
想像より奥行きがあり、正面に白木の扉、両脇に武者の人形が控えている。
お供えを並べ終えた職員さんに、両脇はご祭神ですか、それとも随身様ですかと聞いたところ、
「随身様です。ご祭神は真ん中の御扉の中にいらっしゃいますので。」
ですよね。ありがとうございます。
というか、その御扉を、祈祷をお願いしたわけでもないのに直に見せていただけたことになる。
粘った甲斐があったー!ありがとうございまーす!
で、何やらスッキリして神社を後にした。
小野照崎神社を訪れたかったのは、
ご祭神が元 人だったから。
菅原道真公は正にそうだし、天満宮や天神様は全国にあるほどお馴染みだけど、
元々人だった神様って、基本的に御霊信仰が土台にあると思う。
けど、小野篁公はそうではない。
京都の六道珍皇寺の井戸から地獄に行って、閻魔様の仕事のお手伝いをしていた話が知られている。
その人をお祀りした神社って、どんな感じなんだろ?と思ったのが、
訪れたかった理由である。
感想は、普通にお参りしやすい神社でした。
で、3次元ならではの理も教わりました。
「僕らはみんな生きている 生きているから・・」(『手のひらを太陽に』作詞:やなせたかし)
ということである。
入谷での寺社巡り、確かにおそれいりました。
鬼子母神だけ、ちょっと心残りだったな~。